イチローの移籍をきっかけに

大リーグのイチロー選手がマリナーズからヤンキースに電撃移籍した日、Sさん(25)はある人にメールを送った. 「ご無沙汰しています. 近々お会いできませんか? 」と. 返事はすぐにきた. 「俺もちょうど連絡しようと思ってたんだ」 ある人とは、大学時代のテニス部の二つ上の先輩. レギュラーで学業優秀、何もかもが憧れの存在だった. 同じ九州の出身だったこともあり、公私にわたって面倒を見てくれもした. 卒業後は大手企業からの誘いを断り、急成長中のITベンチャー企業に入社. 後輩から理由を問われると「俺は挑戦者の立場が好きだから」. どこまでも格好よかった. Sさんは就活で、真っ先に先輩をOB訪問したが、「お前は、安定した会社が向いてるんじゃないか」と、いろんな会社を見るよう諭された. 言われたまま他の会社を訪問したが、「やっぱり先輩の会社で働きたい」という気持ちは変わらなかった. 再び門をたたくと、今度は先輩も喜んでくれた. すぐに人事部の採用担当を紹介され、トントン拍子に面接が進み、内定が出た. その夜、先輩は祝いの席を用意してくれた. 「本当に、後悔しないな? 」と念を押され、力強くうなずいた. プレゼントされたブランド物の高級ネクタイは、ここぞというときの勝負ネクタイになった. 会社は、制度面では未整備な部分もあったが、若いうちから大きな権限を任され、成長する実感があった. 自分の選択は間違っていなかったと思っていた. なのに…. 1年前、先輩から突然「実は、外資系企業に転職する」と聞かされた. 思いがけない話に言葉が出ず、先輩も言い訳めいたことは一切、口にしなかった. ぎこちなく別れ、それから先輩に連絡を取ることはなかった. 1年ぶりの再会は、メールのやりとりの翌週の夜. 久しぶりに酒を酌み交わし、「先輩、相変わらずチャレンジャーですね」「お前はまだまだだな」と、以前のように屈託なく会話ができた. メディアでは、イチロー選手を慕ってマリナーズに入った川崎宗則選手の「僕もここでレギュラーを取る目標がある. 僕自身が頑張らないと」という話や、イチロー選手の「一緒の場所にいることが、必ずしも一緒にやっていることではない」というコメントが報じられていた. そんな話題は出なかったが、互いが2人の選手の胸のうちを思いやったのは間違いない. Sさんは「イチローさんのおかげ」と、大切な人との再会のきっかけに、ただただ感謝した.